2008年12月29日

ギュスターヴ・クールベ「世界の起源」

また更新をサボってしまった。もうあぶなく年が変わるところでした。

学校が休みだったので家族と過ごしていたのですが、こういうブログをやっているとあれですね、家族バレには非常に気を使いますね。娘がこんなん書いているのを発見した日には、親として非常に居たたまれなくなること請け合い。息子の隠し持ってるエロ本以上の破壊力なのは間違いない。

そんなこんなで、今回も親には隠し通さなくてはいけないような絵を紹介いたしますぜ。
(シーレの続きも書きます、また今度ね!)

ちょっと予定をすっ飛ばしたのには訳があってですね。

実は、休み中にオルセー美術館で前から気になっていた絵を見てきたのです。















ギュスターヴ・クールベ 「世界の起源」(1866)

いやはや、本物はすごかった。何がすごいって、とにかくまともに見れないの!

現在この絵は他の絵と離されて、部屋の一番奥の壁に一枚だけで展示してあるんだけど、じっくり見れないんですよ、衝撃的過ぎて!

わたくしこの絵のことを前から知っていたし、ここにあるのもわかっていたのだけど、やっぱり本物を目にしたらショックを受けてしまった。やっぱりすげえ、このむき出し具合!

肌はピンクがかった琥珀色っぽいトーンで、すごく綺麗に描かれている。しかし、問題はあの毛だ。

もう、すごい密度なんだわ。一瞬、毛皮??ってなる。

これだけでお腹いっぱいなのに、さらにうっすら中からはみ出してる部分もあるという。

この絵の周りに人だかりが出来ないのもよくわかった。見ていると、みんな気にしつつも、中々立ち止まってじっくり観察できないらしく、タイトルのプレートを見て、全体をざっと見て、ちらちら振り返りながら次の絵に行くという感じ。

監視員の人がこの絵の隣に立ってるのも気になるしね。これを見ている自分が人からどう見られるか気になる、そういう絵です。

クールベはリアリズム(写実主義)という19世紀に誕生した絵画の一派に数えられる画家です。

美術史的な背景を説明すると、当時フランス美術院が推奨していた伝統主義(アカデミック・アート)のヌードというのは、パーフェクトな美貌の神話の女神たちや異国の奴隷たち(アングルのトルコ風呂とか有名ですね)で、実際の女性を写実的に描いたものではなく、形式的なものだったわけです。
この頃の画壇には、エロ絵はけしからんという建前にも関わらず、神話の女か西洋人でない奴隷だったら裸でいいよ(エロくてもいいよ)という暗黙の了解があったため、どの絵もその点を強調してます。











アレクサンドレ・カバネル ヴィーナスの誕生(1863)
プティが飛び回っているのと、波の上に横たわっていてヴィーナスだってわかるのでOK。












ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル 「グランド・オダリスク」(1814)
孔雀の羽のうちわとかターバンがあって、オダリスク(トルコの女奴隷)だってわかるのでOK。

写実主義、理想化されていない姿、リアルにこだわるというのは、反アカデミーの姿勢から生まれたものなんですな。

そんなつるつる無毛割れ目なし、なヌードで画壇が溢れかえっている中、クールベは実際のモデルの局部を超アップにして、これでもか、というほどヘアやらナニやらを描いちゃったわけです。

これは事件ですよ、特にあのヘアの密度は事件だ。もうヘアじゃなくて、体毛って言おうか、体毛。

驚くべきは、ヌードもポルノも無修正エロサイトも溢れかえっているこの21世紀にあって、この絵は未だに見るものにガツンと一発お見舞いしてくれるということです。

このスタイルは写実主義という名前で呼ばれていますが、写実絵画はモチーフを写真のようにあるがまま、見たままに描写したものではありません。実際に目で見た様子に基づいていますが、よりドラマティックになるよう脚色が加えられています。


この絵だと、やはり肌の色と質感に対する毛のコントラストでしょうな。

顔がないのでモデルの特定は出来ませんが、ジェームス・アボット・マクニール・ウィスラーのモデルで愛人でもあったジョアナ・ホフマンだろうと言われているようです。ちなみに友人同士だったウィスラーとクールベはこの絵が原因で決別したと言われているそうな。まあそうだろう、毛皮だし。

彼女は赤毛だから、実際はヘアも赤くて薄かったろうと思うけど、これだけ濃く黒々とさせちゃうのだから恐れ入る。それから人体の切り取り方にも、より衝撃的に、よりエロティックにしようとする心意気みたいなものが感じられる。写真であったとしたらこうはいかない。クールべ・・・あんた職人だよ。

顔が出ないヌードってのは「おまえの母ちゃんも姉ちゃんも憧れの彼女も、みんな実は毛皮生やしてるんだぜ」っていう、ある意味破壊的な声明ですな。タイトルも「世界の起源」だし、俺たちゃ兄弟、みんなここから出て来たんだ!っことか。


2008年の最後に、エロ職人に敬意を表したい。



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2008年12月8日

エゴン・シーレ ポルノ? アート? 1

ようやくアートとエロスに方向を戻して参りました。しかしながら、「エッチ」っていう検索でたどり着いた方には、全然エロくなくてすいません、と平伏するよりほかない。

わたくしの中でスペシャルな位置を占めるエロ画家(失礼!)と言えばエゴン・シーレ (Egon Schiele, 1890-1918) です。19世紀後半から20世紀初頭を代表するオーストリアの画家、と言えばクリムト、ココシュカ、シーレだと思うけど、ココシュカはそこまででもないとして、クリムトとシーレはエロティックな作風でブイブイ言わせてた連中なのですよ。













これは偶然でもなければ、オーストリア人が総エロなわけでもなく、当時のオーストリアの閉鎖的な雰囲気に理由があると思われます。

プルシア崩壊後に連邦国として統合され、政治的・文化的に急成長していたドイツとは対照的に、この頃のオーストリアはまだ皇室政治を保っており、芸術の分野では、音楽・美術共にバロック様式に固執していました。文化は人間性を肯定するものではなく制御するもので、性的なものに対しては非常に抑圧された雰囲気があったようです。

そんなオーストリアの古い体制を打ち壊していったのがニーチェの実存主義や、当時一代センセーショナルになったフロイトの精神分析。特にフロイトの打ち出した、無意識やエゴ、超自我、性的エネルギーであるリビドーなどのコンセプトは芸術の分野にとてつもない影響を与えます。

ヨーロッパ全体が第一次世界大戦に向けて加速する中、不安定な社会を背景に画壇に登場したシーレ。独特の緊張感とエロティシズムに溢れた絵で世間をあっと言わせましたが、モデルをしていた家出少女との淫行疑惑で逮捕もされたし、さらには「わいせつな絵を青少年の目にさらした」という罪に咎められもした、というワイルドすぎな逸話の持ち主でもあります。

そんな事を考えながら画集をめくっているうち、アーティスティクとポルノグラフィックの境界線について検証しようと思い立ったわたくし。ちょっと前置きが長くなりましたが、いきますぜ空想美術館!今回はR18っぽいよ!





















上から「裸婦」1910、「横たわる少女」1911、「座る少女」1911

シーレのヌードで特徴的なのは、何もない背景、起伏の多い筆(ペン)運び、不自然に切りとられ、折り曲げられた四肢、それからじんわりにじみ出るようなエロさ。

エロティックなモチーフを扱う作品には、芸術か猥褻か、アートかポルノか、という議論はつきものですが、最近は露骨なものでもアート市民権を得てきています。そこでよく聞くんですが、アート、の名でくくられるものはエロいとは言わない、という考え方。

確かに全てのエロがアートではない、しかし、アートだからエロくない、というのは断じて違いますぜ!

この頃の絵なんかどう考えても、女性(というか少女達)の身体を性的な対象として描いている。純粋なデッサンの練習なわけないですわ。絵の中にある緊張感は、モデル達のものというより、描いているシーレ自身の緊張感で、なんかこう抑圧された、たぎるような性欲とフラストレーションを感じませんかい。

ここには載せませんが、シーレの裸婦には、脚を持ち上げたりして露骨に「むき出し」にしているものも多くあります。興味のある人は探して見るといいと思いますよ。


初期の頃にモデルを勤めていた4歳年下の妹ゲルティは、シーレと近親相姦の関係にあったのではないか、と言われています。


















上「ゲルティ・シーレの肖像」1909、下「腕を曲げる裸婦」1910

ドレス姿のゲルティは、とても当時16歳とは思えないほど美しく、女神のように神々しく(そこはかとなくセクシーに)描かれていて、兄妹の粋をとうに超える倒錯した何かを感じる。
しかし二番目のヌードを見るとわかるように、妹を限りなく性的に見ていたのも間違いない。妹萌え、が叫ばれ始めて久しいですが、これに比べるとみんなハナクソみたいなもんです。やはり本物は違う、人道を外れる度合いが。

上は当時従事していたクリムトの作風の影響が強い絵なので、単に師にならって、女性モデルをミューズとして描いてみただけなのかもしれないのですが、限りなく危険なおにいちゃんであったことは想像に難くない。ちなみに1910年以降、ゲルティはシーレの絵から姿を消し、代わりに娼婦や家出少女達がモデルを務めるようになります。


シーレの作品はポルノではありません、アートです。しかし、わたくしの個人的な意見では、シーレの作品の大部分は彼自身のエロティックな嗜好性の産物です。

ポルノじゃない、というのは、他人を興奮させるために製作したものではないからってことで、シーレは間違いなく自分の性的な興味を追求していたと思う。
フロイトのおかげで、セックスや性欲は人間の真髄である!的な考え方が出てきてたんでしょうな。エロを通じて自分を表現する、そういう形の芸術が生まれたのはこの頃かも。


シーレの神経質で攻撃的強迫的なエロ絵画は、彼が結婚した頃から落ち着き始めます。
次回はその辺のことを書きながらまとめますよ!



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