2008年12月29日

ギュスターヴ・クールベ「世界の起源」

また更新をサボってしまった。もうあぶなく年が変わるところでした。

学校が休みだったので家族と過ごしていたのですが、こういうブログをやっているとあれですね、家族バレには非常に気を使いますね。娘がこんなん書いているのを発見した日には、親として非常に居たたまれなくなること請け合い。息子の隠し持ってるエロ本以上の破壊力なのは間違いない。

そんなこんなで、今回も親には隠し通さなくてはいけないような絵を紹介いたしますぜ。
(シーレの続きも書きます、また今度ね!)

ちょっと予定をすっ飛ばしたのには訳があってですね。

実は、休み中にオルセー美術館で前から気になっていた絵を見てきたのです。















ギュスターヴ・クールベ 「世界の起源」(1866)

いやはや、本物はすごかった。何がすごいって、とにかくまともに見れないの!

現在この絵は他の絵と離されて、部屋の一番奥の壁に一枚だけで展示してあるんだけど、じっくり見れないんですよ、衝撃的過ぎて!

わたくしこの絵のことを前から知っていたし、ここにあるのもわかっていたのだけど、やっぱり本物を目にしたらショックを受けてしまった。やっぱりすげえ、このむき出し具合!

肌はピンクがかった琥珀色っぽいトーンで、すごく綺麗に描かれている。しかし、問題はあの毛だ。

もう、すごい密度なんだわ。一瞬、毛皮??ってなる。

これだけでお腹いっぱいなのに、さらにうっすら中からはみ出してる部分もあるという。

この絵の周りに人だかりが出来ないのもよくわかった。見ていると、みんな気にしつつも、中々立ち止まってじっくり観察できないらしく、タイトルのプレートを見て、全体をざっと見て、ちらちら振り返りながら次の絵に行くという感じ。

監視員の人がこの絵の隣に立ってるのも気になるしね。これを見ている自分が人からどう見られるか気になる、そういう絵です。

クールベはリアリズム(写実主義)という19世紀に誕生した絵画の一派に数えられる画家です。

美術史的な背景を説明すると、当時フランス美術院が推奨していた伝統主義(アカデミック・アート)のヌードというのは、パーフェクトな美貌の神話の女神たちや異国の奴隷たち(アングルのトルコ風呂とか有名ですね)で、実際の女性を写実的に描いたものではなく、形式的なものだったわけです。
この頃の画壇には、エロ絵はけしからんという建前にも関わらず、神話の女か西洋人でない奴隷だったら裸でいいよ(エロくてもいいよ)という暗黙の了解があったため、どの絵もその点を強調してます。











アレクサンドレ・カバネル ヴィーナスの誕生(1863)
プティが飛び回っているのと、波の上に横たわっていてヴィーナスだってわかるのでOK。












ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル 「グランド・オダリスク」(1814)
孔雀の羽のうちわとかターバンがあって、オダリスク(トルコの女奴隷)だってわかるのでOK。

写実主義、理想化されていない姿、リアルにこだわるというのは、反アカデミーの姿勢から生まれたものなんですな。

そんなつるつる無毛割れ目なし、なヌードで画壇が溢れかえっている中、クールベは実際のモデルの局部を超アップにして、これでもか、というほどヘアやらナニやらを描いちゃったわけです。

これは事件ですよ、特にあのヘアの密度は事件だ。もうヘアじゃなくて、体毛って言おうか、体毛。

驚くべきは、ヌードもポルノも無修正エロサイトも溢れかえっているこの21世紀にあって、この絵は未だに見るものにガツンと一発お見舞いしてくれるということです。

このスタイルは写実主義という名前で呼ばれていますが、写実絵画はモチーフを写真のようにあるがまま、見たままに描写したものではありません。実際に目で見た様子に基づいていますが、よりドラマティックになるよう脚色が加えられています。


この絵だと、やはり肌の色と質感に対する毛のコントラストでしょうな。

顔がないのでモデルの特定は出来ませんが、ジェームス・アボット・マクニール・ウィスラーのモデルで愛人でもあったジョアナ・ホフマンだろうと言われているようです。ちなみに友人同士だったウィスラーとクールベはこの絵が原因で決別したと言われているそうな。まあそうだろう、毛皮だし。

彼女は赤毛だから、実際はヘアも赤くて薄かったろうと思うけど、これだけ濃く黒々とさせちゃうのだから恐れ入る。それから人体の切り取り方にも、より衝撃的に、よりエロティックにしようとする心意気みたいなものが感じられる。写真であったとしたらこうはいかない。クールべ・・・あんた職人だよ。

顔が出ないヌードってのは「おまえの母ちゃんも姉ちゃんも憧れの彼女も、みんな実は毛皮生やしてるんだぜ」っていう、ある意味破壊的な声明ですな。タイトルも「世界の起源」だし、俺たちゃ兄弟、みんなここから出て来たんだ!っことか。


2008年の最後に、エロ職人に敬意を表したい。



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2008年12月8日

エゴン・シーレ ポルノ? アート? 1

ようやくアートとエロスに方向を戻して参りました。しかしながら、「エッチ」っていう検索でたどり着いた方には、全然エロくなくてすいません、と平伏するよりほかない。

わたくしの中でスペシャルな位置を占めるエロ画家(失礼!)と言えばエゴン・シーレ (Egon Schiele, 1890-1918) です。19世紀後半から20世紀初頭を代表するオーストリアの画家、と言えばクリムト、ココシュカ、シーレだと思うけど、ココシュカはそこまででもないとして、クリムトとシーレはエロティックな作風でブイブイ言わせてた連中なのですよ。













これは偶然でもなければ、オーストリア人が総エロなわけでもなく、当時のオーストリアの閉鎖的な雰囲気に理由があると思われます。

プルシア崩壊後に連邦国として統合され、政治的・文化的に急成長していたドイツとは対照的に、この頃のオーストリアはまだ皇室政治を保っており、芸術の分野では、音楽・美術共にバロック様式に固執していました。文化は人間性を肯定するものではなく制御するもので、性的なものに対しては非常に抑圧された雰囲気があったようです。

そんなオーストリアの古い体制を打ち壊していったのがニーチェの実存主義や、当時一代センセーショナルになったフロイトの精神分析。特にフロイトの打ち出した、無意識やエゴ、超自我、性的エネルギーであるリビドーなどのコンセプトは芸術の分野にとてつもない影響を与えます。

ヨーロッパ全体が第一次世界大戦に向けて加速する中、不安定な社会を背景に画壇に登場したシーレ。独特の緊張感とエロティシズムに溢れた絵で世間をあっと言わせましたが、モデルをしていた家出少女との淫行疑惑で逮捕もされたし、さらには「わいせつな絵を青少年の目にさらした」という罪に咎められもした、というワイルドすぎな逸話の持ち主でもあります。

そんな事を考えながら画集をめくっているうち、アーティスティクとポルノグラフィックの境界線について検証しようと思い立ったわたくし。ちょっと前置きが長くなりましたが、いきますぜ空想美術館!今回はR18っぽいよ!





















上から「裸婦」1910、「横たわる少女」1911、「座る少女」1911

シーレのヌードで特徴的なのは、何もない背景、起伏の多い筆(ペン)運び、不自然に切りとられ、折り曲げられた四肢、それからじんわりにじみ出るようなエロさ。

エロティックなモチーフを扱う作品には、芸術か猥褻か、アートかポルノか、という議論はつきものですが、最近は露骨なものでもアート市民権を得てきています。そこでよく聞くんですが、アート、の名でくくられるものはエロいとは言わない、という考え方。

確かに全てのエロがアートではない、しかし、アートだからエロくない、というのは断じて違いますぜ!

この頃の絵なんかどう考えても、女性(というか少女達)の身体を性的な対象として描いている。純粋なデッサンの練習なわけないですわ。絵の中にある緊張感は、モデル達のものというより、描いているシーレ自身の緊張感で、なんかこう抑圧された、たぎるような性欲とフラストレーションを感じませんかい。

ここには載せませんが、シーレの裸婦には、脚を持ち上げたりして露骨に「むき出し」にしているものも多くあります。興味のある人は探して見るといいと思いますよ。


初期の頃にモデルを勤めていた4歳年下の妹ゲルティは、シーレと近親相姦の関係にあったのではないか、と言われています。


















上「ゲルティ・シーレの肖像」1909、下「腕を曲げる裸婦」1910

ドレス姿のゲルティは、とても当時16歳とは思えないほど美しく、女神のように神々しく(そこはかとなくセクシーに)描かれていて、兄妹の粋をとうに超える倒錯した何かを感じる。
しかし二番目のヌードを見るとわかるように、妹を限りなく性的に見ていたのも間違いない。妹萌え、が叫ばれ始めて久しいですが、これに比べるとみんなハナクソみたいなもんです。やはり本物は違う、人道を外れる度合いが。

上は当時従事していたクリムトの作風の影響が強い絵なので、単に師にならって、女性モデルをミューズとして描いてみただけなのかもしれないのですが、限りなく危険なおにいちゃんであったことは想像に難くない。ちなみに1910年以降、ゲルティはシーレの絵から姿を消し、代わりに娼婦や家出少女達がモデルを務めるようになります。


シーレの作品はポルノではありません、アートです。しかし、わたくしの個人的な意見では、シーレの作品の大部分は彼自身のエロティックな嗜好性の産物です。

ポルノじゃない、というのは、他人を興奮させるために製作したものではないからってことで、シーレは間違いなく自分の性的な興味を追求していたと思う。
フロイトのおかげで、セックスや性欲は人間の真髄である!的な考え方が出てきてたんでしょうな。エロを通じて自分を表現する、そういう形の芸術が生まれたのはこの頃かも。


シーレの神経質で攻撃的強迫的なエロ絵画は、彼が結婚した頃から落ち着き始めます。
次回はその辺のことを書きながらまとめますよ!



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2008年10月28日

リビドー急落、フロイトを思う

ちょっとプライベートがごたごたしております。
書きたいことがいろいろあるのに、中々時間がとれないという。

人生にはエロが必要だ、いやむしろエロを語らずして何を語るか!!
とアート的な1日1エロを公言したいが為に始めたブログなのですが、
その肝心のエロ分が不足しているという、何とも情けない状態になっております。

いやはや、そのためにわざわざ見に来てくださった方には申し訳ない。
ぶっちゃけ最近書き終わる前に萎えちまうんでさぁ、いや、ほら気力がね?

とりあえず、今後予定しているトピックは

エゴン・シーレとポルノの定義

ジョージア・オキーフ(詳しい内容はまだ未定です。アーティスト中心で
行きたいと思ってますけど。)

書いたからって大したことが書けるわけでもないのですけど、美術の中の
性について言及するのは、自分のセクシュアリティに戦いを挑んでるような
もんですな。

研究をする上で自分のセクシュアリティと常にガチバトルだったであろう
フロイトはすごい、でもあの夫と生涯連れ添った夫人はもっとすごい。

個人的にはフロイトとセックスしてたって事だけで敬意に値する。
(だって男根願望とか言ってた男ですよ!)
この予定をすっ飛ばして、急進的なフェミニスト・アートとかについて
書き始めたら、ああ、みらんは疲れてるんだなと思ってそっとして
おいてください。リビドーが回復したらいずれ書きます。

そのうち村上隆の「マイロンサムカウボーイ」についても書きたいと思ってます。
サザビーのオークションでこの春落札されたんで、記憶に新しいかと思いますが。
あれは面白い作品ですよー!



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2008年10月25日

フリーダ・カーロ 痛みとカタルシス2

前回に引き続き、カーロの絵を紹介します。 今回の空想美術館は痛いぜ!

夫を交通事故で亡くした後、自分も自殺してしまったハリウッド女優ドロシー・ヘイル。カーロはへイルの友人、クレア・ルースから記念の肖像画を依頼される。出来上がったのがこちら。













The Suicide of Dorothy Hale, 1938, Oil on masonite with wooden frame, Phoenix Art Museum
「ドロシー・ヘイルの自殺」

肖像画を依頼されてるんだっていうのに、投身のプロセスと遺体を描いちゃうという。そんな百年の友情をも一瞬にして粉砕するような破壊力抜群な絵なわけですが、わたくし実はこれは中々の物だと思うのですよ。

初期のイメージとは明らかに違って、成熟したスタイルで描かれています。絵は上から順番に物語形式になっております。高層アパートメントから飛び降りるへイル、真ん中では落ちていくへイルのアップ、そして一番下は地面に横たわる遺体。この上から下への展開は時間の経過を表すのと共に、飛び降りの物理的な動きも再現してるんですね。こうする事で観衆はヘイルと一緒に飛び降りを体験することになるわけです。

そして、意見は分かれると思うのですが、ヘイルが美しい(どこが?って言わずに、まあ落ち着け)。彼女の身体がリアルな死体としてではなく、とても美化されて描かれている。まるで舞台の上で死ぬ役をやっているようにも見えます。儚くて物悲しい、どこか宗教画に登場する殉教者のような美しさがある。青い空で統一された背景は、ニューヨークの町並みではなく、まるで天国。下の文にはへイルの自殺の日時や様子がリタブロー(retablo)風に書かれていて、カーロが宗教画を意識してこの絵を描いた事がわかります。血文字で書かれてるところはフリーダ流、そこはこの際さらっと流そう。

この絵を書いた頃、カーロは別居中のリベラとの関係に悩み、自分でも自殺を考えていたそうで。

とにかく、完成した絵を見たルースがぶったまげたのは間違いないわけです。ポートレイトを頼んだはずなのに、こんなのが届けられる。予想外これに極まりです。


カーロの予測不可能っぷりは、相手が権力者でも発揮される。














1942, Oil on copper plate, Museo Frida Kahlo, Mexico City


これはメキシコ大統領の夫人からの注文で描いた静物画で、どこからどう見てもアレなわけです。ファースト・レディは受け取りを拒否したそうな。すっげええ(拍手)!!

そんなイカしたKYっぷりのカーロ。リベラとの離婚後、痛い心をこれでもかと更に痛く描き表します。













The Two Fridas, 1939, Oil on canvas, Museum of Modern Art, Mexico City
「二人のフリーダ」

カーロは文字通り血が出るほど苦しんだようです。ひとりはメキシコ風の服に身を包んだ、リベラに愛された自分。もうひとりはヴィクトリア風ドレスを着た、リベラから捨てられた自分で、捨てられた方の心臓は破裂しております。愛された方のカーロが持っているのは小さなリベラの肖像、そこから伸びる血管が2人のカーロをつないでおりますが、鉗子で押さえていても切れた血管からしたたる血・・・。わあああ、痛い!

カーロは「私は自分の現実を描くのです・・・何でも頭の中に浮かぶことを深く考えずに描きます」と言ったそうですが、絵を描くことがカタルシスになっていたんでしょうな。絵は苦しい時、その痛みを吐き出す所だったんですね。晩年は健康状態が悪く、46歳にしてほぼ寝たきりになったカーロ。右脚の壊疽が悪化して膝から下を切断した後、自分の脚をスケッチし「足・・・もし私に飛ぶための翼があるのなら、そんなもの何のために必要なのか」と書いており、強靭な精神を持っていたことを伺わせます。

実際のカーロは快活で、下品な言葉も下ネタのジョークもよく言っていたらしいです。マスターベーションしている自画像も描いてるし(火事で消失)、わき毛もボーボーだし。いろんな意味でハジけた女性であったことは間違いないですな。あ、あと彫刻家のイサム・ノグチと画家のジョージア・オキーフもカーロと愛人関係にあったらしいですよ(そういえばオキーフもわき毛がすごかったな)。

最後にわたくしの好きな絵を。










Moses, 1945, Oil on masonite, Private collection
「モーセ」

カーロは他にも面白い絵を描いてるので、機会があったらまたその時に。



みらんも面白いこと書くじゃん、て思っていただけたらクリック!

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2008年10月23日

フリーダ・カーロ 痛みとカタルシス1

前回のエントリーでディエゴ・リベラについて書いたので、今回はその妻で画家のフリーダ・カーロ(Frida Kahlo, 1907-54) について何回かに分けて書きたいと思います。今ではカーロのほうが人気があるんじゃないかしら。












さて、カーロと聞くと、あのうっすらヒゲが生えていて、つながった眉毛の自画像を思い浮かべる人が多いんじゃないかと思う。彼女の自画像は動きこそ無いけど、見るものに緊張感を与える。まあ、涙とか血とか時には胎児とか、微妙にグロくてもの凄く痛々しいイメージがワッショイ!って来れば、ドッキリしない方が不思議かもしれない。

18歳の時にあったバス事故の影響で傷を負い、生涯後遺症と痛み(あと夫リベラの浮気)に苦しんだからこういう絵を描いた、というのが通説なわけですが、それにしても彼女の絵はステキにエグい。

わたくしいつも思うのだけど、男性より女性の方が身体的・精神的な痛みに圧倒的に強い。生理痛とか出産とか男性中心社会で生きるとか、そういう痛いライフイベントが多いからなのかもしれないけど、ショッキングなイメージを使うのって大抵女性アーティストだよね。


まあ前置きはこれくらいにして、行きますぜ空想美術館!











My Birth, 1932, Oil on metal, Private Collection of Madonna.
「私の誕生」

わああああ、痛い痛い痛い!それ裂ける!裂けるって!!

自分の生まれる様子を想像して描いたという一枚。・・・こんな苦しいM字開脚見たことないぜ。インリン様ファンの男性陣には申し訳ないが、このポーズは本来こういうものだったんだよね!と爽やかに言おう。この絵の何がすごいって、生まれてるカーロが大人だって事。わたくし女性なので、頭でけぇー! こんなん出せねえー!とか思ってしまう。カーロの母親(生んでる人ね)の頭がシーツで覆われてるのもポイント。この頃実際に母親が亡くなっていると言うことだけでなく、生と死を対比させてるんですな。ベッドの上の絵は悲しむ聖母マリア("Virgin of Sorrow")。息子であるキリストの死を悼む姿です。

リベラとの結婚後も長いこと画家としては知られていず、趣味で家族や友人の肖像画を描く程度だったカーロ。そんな彼女が本格的に絵に取組み始めたのは、デトロイトで二回目の妊娠と流産を経験してから。事故で子宮と骨盤を大幅に損傷していたので、妊娠しても出産まで漕ぎ着けられないといわれていたそうだし、リベラがもう子供を欲しがらなかったので、薬で堕胎しようとするが失敗。リスクを帯びながらも帝王切開で出産することを決意した頃の出来事だった(最初の妊娠は胎児の位置が悪かった為中絶している)。彼女自身は命を取り留めたものの、精神的に大きな傷を負う。流産のすぐ後に描かれたのは「ヘンリー・フォード病院」だけど、この絵も同じ年に描かれている。

ちなみに「私の誕生」を現在所有しているのは歌手のマドンナ。雑誌の取材に語った所によると、この絵が好きではない人とは友達になれないので、友人にするかしないかのテストに使ってるそうです。いくらマドンナとはいえ、すごい試しっぷりだ。あと、この間離婚した夫のガイ・リッチーはこの絵がダメだったらしい。食欲がなくなる絵であることは間違いないからな。元妻が許さなくても、あたしが許す!

リベラの浮気性は相当どうしようもなかったらしいですが、カーロもガンガン不倫してたらしい。バイセクシュアルだったので、女性とも男性とも関係があったようです。











Flower of Life, 1943, Oil on masonite, Mexico
「命の花」
これは、まあ見てわかるように花なんだけど、他のものでもあるわけです。カーロは静物画によくセクシュアルなモチーフを入れてたんですけど、これは割とモロですね。見たまんま、真ん中の花の中心がアレ状態になってるナニで、先から雌しべ雄しべが噴出しております。花弁の部分が子宮と卵巣。突き破っちゃってるじゃん!どんだけでかいんすか!という突っ込みは無しにしても、やっぱり自分の身体や妊娠のことで複雑なものがあったんだろうなと思う。カーロの描く生殖器はエロくはない、解剖学的でどちらかというとグロい。全くロマンティックじゃないんですよ、女性画家特有の現象だと思う。
それにしても、こんだけ勢いよく噴出したらばっちり受精しそうだわ。子供こそ出来なかったけど、ここは夫婦そろって繁殖意欲は旺盛だったんだろうな。


長くなってきたので今回はこの辺で。次回はもうちょっとカタルシスに焦点を置いていきますよ。


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2008年10月22日

ディエゴ・リベラ

ぶらっと立ち寄った本屋にディエゴ・リベラ (Diego Rivera, 1886-1957) の画集が置いてあった。

リベラと言えば、西洋美術史の教科書に載る数少ない中南米出身の画家で、20世紀メキシコを代表する壁画家なわけですが、わたくしにはどうも画家フリーダ・カーロの夫というイメージが強くて、あんまり真剣に絵を見たことがなかったのです。

リベラとカーロの話は何度か映画になったくらい有名ですが、リベラの派手な女性関係もまた注目すべき点ですな。

2人の愛人に一年違いで一人づつ子供を産ませ、最初の妻との間にも2人の娘をもうけるが離婚。翌年、二十歳年下のカーロと42歳で再婚するも、もちろん不倫三昧。さらにはカーロの妹とも関係を持ってリアル姉妹丼。「一夫一婦制に向いていない」と医者から言われたことをいいことに(一体どうしたっていうんだね、ドクター?)、「セックスだけだった・・・握手みたいなものだよ、他には何もない」と自分の女性関係を男らしすぎる勢いで正当化していたという、デンジャー!デンジャー!近づくと孕ませられるわよ!!という類の実写版サノバビッチであるリベラですが、絵を見る価値は大いにあると思う。

うーん、と唸るくらい上手い。これは売れるわ。











「裸婦の背中」
Back of a seated Nude, 1926 Red chalk and charcoal, San Francisco Museum of Modern Art












「マドリッドの花売り」
Madrid Flower Vendor, 1949, Oil on canvas, Madrid













「画家のアトリエ」
The Pinter's Studio, 1954, Oil on canvas, Mexico City


壁画もよく書き込まれていて、力がある。











「汎米の調和」
Pan-American Unity, Panel 4, 1940, Fresco, San Fransisco



構成が凄い。人物を絵の表面に重ねるように描くのは、ジョットのアレーナ・チャペル壁画(スクロヴェーニ礼拝堂)を思い出させる。機械のパーツはフェルナンド・レジャーかな。トーマス・ハート・ベンソンを意識しているようなスタイルもある。こんな絵を描かれたら、いくら見た目がアレでも感心せざるを得ない。

いかにせよタンゴはひとりじゃ踊れないので、リベラはそれくらいモテたとも言えるわけです。一般人が必死にモテ指南の本を読み漁ってる間に、どっかの天才は今日もナオンをゲットしているわけだ。まったくやりきれない。
 
カーロとリベラ 













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2008年10月9日

生理用品

生理中っていうのは妙に頭だけ冴えて困る。
今回は生理用品について書こうかなと思い立った。

私はティーンの頃からずっとタンポン派です。

ナプキンは寝るとき以外は基本的に使わない、何故ってかぶれるから。
常に湿ったオムツをつけてるようなもんだから、どうしてもムレて痒くなってしまうし、場所が場所だけに掻き毟ることも出来やしねえ(掻いたら掻いたで指が血だらけになるしね)。

タンポンだと、まあちょっと漏れるのは仕方ないとしても、あの痒みと濡れオムツ感から開放される。

当然のごとくドイツでもタンポンを探したのだけど、指で入れるタイプのものが圧倒的に多い。
アプリケーター付きのもあるのだろうけど、ほとんど見当たらない。

今まで指で入れるタイプの物を使ったことが無かったんだけど、この間駅の売店でタンポンを買ったら、よく見なかったため箱を開けたらアプリケーター無しだった。

瞬ドキッとするも、これも何か機会だと思って使ってみると、かなり奥の方まで押し込まなくてはいけない事に気づいた。

位置が浅すぎると違和感がすごく、とても居られたものじゃないので、ぐいぐい遠慮なく押し込む。
指を突っ込んでタンポンを押していると、ちょっと右に曲がってるとか、後ろ側に押した方が進むとかそういうことがわかってくる。うーん、自分再発見。

そんな事を考えていたら、こんなものを見つけました。

コスタリカ出身のアーティスト、プリシラ・モンへの作品で「孤立と抑制の部屋」

"Room for Isolation and Restraint," Priscilla Monge (2000)
コピーライトの関係で写真が掲載できないんで、気になる人は

英語のタイトルで見てみて


2007年にブルックリン美術館でやっていた「グローバル・フェミニズム」で展示されていたインスタレーションだそうです。

木で出来た小さい正方形の部屋の中に生理用ナプキンが張り巡らせてある。

ドアの外に箱が靴カバーの入った箱が置いてあって、「中に入る前に靴カバーを着けて下さい」とサインがある。

中に入って最初に気づくのが、むせ返るようなナプキンの匂い。

確かに生理用品にはよく化粧用のパウダーみたいな匂いがつけてある。経血のにおいをカバーするためだと思うけど。
しかしながら、壁を埋め尽くすナプキンから発散されるこの香料はすごい、本当に息ができない。

真っ白の部屋は病院の無菌室を連想させるけど、この息のつまる小ささと、ドアにつけてある覗き窓には監獄のイメージもある。多分箱の大きさは2m四方くらいじゃないかな。中には裸電球が一つ付いてる。

辞書を引いてみると、タイトルのIsolation には孤立のほかに隔離、Restraintには拘束とか自制っていう意味もある(元々はスペイン語のタイトル)から、そのことも間違いなく計算済みなんだろうと思う。

生理があるためだけではないけど、女性は歴史的に色々な意味で社会から隔離されてきたし、行動も制限されてきた。

ナプキンの発明は女性を解放した!とはよく言われるけど、このクラクラする匂いを嗅いでしまうと、本当の所はどうなんだろうと思っちゃう。

生理や女の性に対する意識って、実はそう変わっていないのかもしれない。


ナプキンで隔離された部屋で、物理的に息苦しくさせるというのは実にクレバーだと思う。

2008年8月24日

とにかく

迫り来る課題から逃げる為にだけブログを作った。

こうしてわたくし、激しく人生を無駄遣いする。